人間関係における「釣り合い」という概念が嫌いという話

嫌いな話



 成績優秀な家族と比較され、むしろ釣り合いが取れていると揶揄される。
 頭脳明晰な友人といると、釣り合わないと嗤われる。
 容姿端麗な恋人と並ぶと、釣り合っていないと非難される。

 世間では、そんな光景がよく見られます。
 人間関係において、「釣り合い」というものはそんなに重要でしょうか。

 家柄を見て、家族を見て、友人を見て。
 学歴を見て、職種を見て、容姿を見て。
 その釣り合いが取れているかを言及する。

 一体そこになんの意味があるのか、どんな価値があるのか。
 どういうつもりで言っているのか。
 到底理解できることではありません。

 ということで、今回は「釣り合い」という概念に囚われた人々の目を覚ますべく、その嫌いを語っていこうと思います。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

「釣り合い」に見る人の本質


「釣り合い」とはなにか


 そもそも「釣り合い」とはなにか。
 
 ある二つ以上の対象物を比較したとき、その価値が同等であるかを判断すること。
 対照した(照らし合わせた)対象物(物体あるいは概念)が対称(同等)であるかを見ること。
 価値を見定めて対象物が同等かをはかること。
 天秤で均衡かをはかること。

 釣り合いとは、平均を保つこと。平衡。均衡。バランス。
 釣り合いが取れているという状態は、均衡が保たれているということ。


 今回のお話は、取引における釣り合いとは別の、人間関係についてです。
 人に釣り合いを求めるのはいかがなものか、という問題提起でもあります。



「釣り合い」のなにが嫌いか


 他者と比較して、自分の改善点を見つける。
 これはわかります。
 人と人を見比べて、バランスが均等かどうかを議論する。
 これがわかりません。

 なにをしているのだろう。
 なぜ赤の他人が人の関係に口を出すのだろう。
 釣り合っているからなんだというのだろう。

 自分は不細工だからと、人を好きになることすらおこがましく感じて。
 こいつは自分より下だと決めつけ、相手をよく見ようとすらしない。
 そんな行動こそが、自分の価値を下げているのではないか。
 釣り合いを取れなくしているのは、自分自身ではないか。

 そんなことを考えていると、嫌いだなと思う点が三つ浮かび上がりました。
 ということで、これからそれぞれ語っていきます。


本質を見ているか

 嫌いな点その一、ちゃんと見ない。

 人と人が関係を築こうとするとき、一体どういった点を気にするでしょう。
 第一印象としては容姿や身嗜み、その次に役職や立ち振る舞いなどでしょうか。
 このとき、そういった表面化された上辺だけの情報で、この人はこうだと決めつけてはいないでしょうか。

 人となりを見ようとしているでしょうか。
 その性質を理解しようとしているでしょうか。
 上面だけのわかりやすく目に見える情報でしか、他人を捉えられていないのではないでしょうか。

 他人を「釣り合い」という観点でもって見て、すぐに見て取れる情報以外を排除してしまう。
 そうして、自分に合うか合わないかを表面的な情報のみで判断している。
 このようになってはいないでしょうか。

 こうした、表層をなぞるだけで親睦を深めるか否かを決定するような人が嫌いです。
 きちんと中身も見ようとしているよ、という方はそのままでいてください。

独善的なものさし

 嫌いな点その二、決めつけ。

 一つの情報を読み解くとき、どういった基準で物事を分析しているでしょう。
 客観性に欠けた主観的思考によるものの見方をしていて、その評価にはよくない偏見があるのではないでしょうか。
 いわゆるレッテル貼りやカテゴライズをしていないでしょうか。
 独善的、つまりひとりよがりなものさしでもって他人を見て、そこに優劣を付けていたりはしませんか。
 そうして、勝手に他人を上に見て敬遠し、下に見て露骨に態度を変える。
 そうはならないでほしいです。

根本的価値観の相違

 嫌いな点その三、合わない。

 そもそも、物事を判断する根本的な価値観が大きくズレている。

 自分の基となる考え方、重要視するものがなにか。
 なにに価値を感じ、どのように判断するか。
 他人の価値観を理解しようとする柔軟性はあるか。
 人としての軸を認識しているか。行動指針はあるか。

 こういったことを考えたことがあるでしょうか。
 人を「釣り合い」で見るタイプの人は、おそらくないんだろうなと思います。
 あるいは、それを理解した上で行動しているのでしょう。
 
 それはそれでいいと思います。生き方を人にとやかく言われたくはないでしょう。
 ただそれだと私とは相容れることはない、ということです。
 「釣り合い」そのものではなく、「釣り合い」という概念で人間関係を考えるという行為が嫌い。
 そんなところです。



どう考えればいいか


 今まで「釣り合い」で世界を見てきた人。
 あるいはそんなこと考えたこともなかったという人もいるでしょう。
 そんな人にどう考えてほしいかをいくつか提案してみます。
 

 人を見るときは、特徴のみを気にするのではなく、本質や言動を注視しよう。
 情報ではなく人となりを見ようということです。

 釣り合いが取れるかどうかを基準に、人の交流を見るのはやめよう。
 誰と誰が親しくしていようとも不思議ではないと考えましょう。

 自分がその人と親しくなりたいかどうかで、交友関係を築こう。
 苦手だなと感じる人に、無理に付き合う必要はない、逆も然りです。
 他人に無理に合わせようとすると、それだけでしんどいですからね。

 人と人の関係に釣り合いなど不要と考えましょう。
 人は均衡の取れていないものを本能的に不安に感じる傾向にあります。
 だからといって、それを人に当てはめる必要はないということです。


 どうでしょう。
 それほど難しいことは言っていないと思います。
 明日から、なんなら今からでもできそうですね。

 うるせーしらねーめんどくせーと思う方はそれでいいです。
 それをしなかったからといって、なにがあるわけでもないので。
 嫌だなと思う人がいる、という事実を知ってもらえればそれで十分です。

 なにかしら、人の気持ちを考えるきっかけになれたら嬉しいなと思います。



まとめ


 「釣り合い」の嫌いな点を簡単にまとめるとこうですかね。

 情報でしか人を見ていない。
 独善的なものさしで他人に優劣を付けている。
 物事を判断する根本的価値観が凝り固まっている。

 考え方の提案をまとめるとこう。

 人をちゃんと見よう。
 人に決めつけはやめよう。
 価値観の違いを知ろう。
 無益な比較はやめよう。


 自分と誰か、他人と誰かを見たときの両方を合わせて書いたので、理解しづらい部分があったかもしれません。そこは私の腕のなさです、申し訳ありません。
 この記事を通してなにが言いたかったかというと、人を「釣り合い」で見るのはやめようということです。それが自分でも他人でもです。

 ということで、こんな嫌い話に最後までお付き合いいただきありがとうございました。


コメント